R・A・S(ラス)
階段を降りてリビングに入ると、まだ7時だというのに、9月初めにしてはまだ強い日差しが、カーテンの隙間から差し込んでいた。
彼女は、窓の側に近寄り、思いっきりカーテンを開け放った。
すると、まだ早いせいか、ダウンタウンはスモッグに覆われる前で、その向こうのグリフィス・パークの丘まで見通すことができた。
彼女は、ゆっくり深呼吸を二、三度すると、振り返り、窓際に置いてあるロッキング・チェアーに腰を下ろした。
そして、背もたれにゆっくりもたれかかると、心地よさそうに両目を閉じ、右手で、優しくロッキングチェアーの肘掛を撫でるのだった。
それは傍で見ると、まるで、そこにいる誰かの手を、優しく愛撫するかのようだった。
それから彼女はゆっくり目を開き、暖炉の横の、よく使い込まれた木製のイーゼルに乗せてある、まだ未完成に見える一枚の絵を、いとおしむような眼差しで見つめた。
「かあさん・・・、コーヒーが出来たよ。」
「・・・・・・・・。」
そういって娘が入ってきても、彼女はそのままロッキング・チェアーに揺られながら、優しい眼差をその絵からそらそうとはしなかった。
娘はコーヒーをテーブルの上に置き、暫くそんな彼女の姿と絵を見比べていたが、そのうち彼女の後ろに回り込むと、甘えるように彼女を抱きしめ、頬と頬を合わすのだった。
彼女は、左手で娘の手を取り、少し娘の方に顔を向けると、娘の手の甲にそっと口づけをした。
それから二人は、言葉を交わすわけでもなく、じっとその絵を見つめるのだった。
長い長い時間を経てやっと訪れた、本当の親と子が、家族が、向かい合う時間だった・・・。
津和野へ
「マミー、海だよ。海が見える。起きてよ。ほら、起きてってば。」
・・・・・。
「凄いな。この海って中国につながってる海だよね。日本に来て、パシフィック以外の海を、空から初めて見たわ。もしかしたら中国が見えるのかなァ。」
麻子は娘に何度も体を揺さぶられながら、それでもまだウトウトしていた。
前日にアメリカから東京に着いて、東京で一泊はしたものの、それでも時差ボケは続いていた。毎回日本に帰ってくると、時差ボケが直るのに3日はかかるのに、そんな私に比べるとなんと娘の元気なことか。― と、麻子は娘のスミレの活発さが羨ましかった。
「マミー、見てごらんよ、海がきれいだよ。向こうのほうに島もある。なんかいいとこだね。ねェ、ねェ、中国ってどこに見えるの。」
「中国はここから見えないわよ。そうねェ、韓国ならもしかしたら見えるかもね・・・。」
そういって、重たい体を起こして窓から外を見ると、もう海が身近に迫って見えた。5月の穏やかな海が、麻子にもとても新鮮に映った。
「まもなくこの機は、萩、石見空港に着陸いたします。お客様はシートを元の位置にお戻しになり・・・。」
そう機内放送があり、麻子はそれを聞いてやっと座りなす気になったが、もうすぐ着くのかと思うと、反面少し気持ちが重たくなっていた。
今回の日本国内での旅行で、どうして山陰にまで足を伸ばし、津和野まで訪ねることを認めたのか。正直自分の中にそれに対する多少のわだかまりは残っていた。
二十数年連れ添ったジムが3年前にガンで亡くなり、彼が残してくれた資産と、それに自分の仕事もうまくいっている状態で、生活にも精神面にも余裕が生まれていた。一人娘のスミレも2年前に大学を卒業したし、麻子はこれからの人生をいかに有意義に生きるかだけを考えようと思い初めていた。
そんな訳で、今回の旅行はいままでの里帰りとは違って、思いきってひと月日本に滞在して、これまで行ったことのない西日本を中心に歩こうとスミレと計画を立てたのだった。
スミレはこの計画をすっかり自分が仕切る気になってしまい、いろんな方面からパンフレットやガイドブックを引っ張ってきては一人ではしゃいでいたが、まさかスミレの口から津和野という言葉が出ようとは思ってもいなかった。
「津和野はね、山陰の小京都なんだって。それに山口号っていう蒸気機関車が、津和野と山口っていう町の間を走ってるらしいよ。蒸気機関車に乗るのもロマンティックだし、マミー、津和野には寄ってみようよ。」
スミレからそう言われたときには、麻子は内心戸惑った。
島根県の津和野町は、麻子にとって、もう二度と思い出したくない、ある人物の生まれ故郷だった。
その男のために、麻子はアメリカで大変辛い経験をした。勿論それはジムと結婚する前であり、スミレの生まれる前のことだった。。
いくら津和野が京都に似たたたずまいの美しい場所であっても、そんな人間の故郷なんて誰が行くもんですか。と、麻子はこの二十数年頑なに思い続けてきた。
「マミーはどうして津和野に行けないの。」
そんな麻子に対してスミレは何度も理由を聞きたがったが、麻子にはそれを言えない訳があった。
「聞いても何も答えないし、理由もないのに行けないなんておかしい。」
スミレはそういって、どうしてもここははずせないと言い張り、麻子も頑として首をたてに振ることはできなかった。
そんな意地の張り合いが一週間続いた頃、麻子は夢の中でその男、礼一の姿を見た。
あれほど恨んでいたはずなのに、礼一が一人で寂しそうにトボトボ歩いている姿を見て、追いかけようとする自分がそこにいた。
そして思い切って声を掛けようとしたときに目が覚めた。
「もうそろそろ、わたしもあの人のことを許してあげる時期にきたのかもしれない。スミレがそれほど望むなら、もういいのかも・・・。それに・・・。」
翌朝、麻子は一泊だけという条件付で同意したのだった。
あの朝のスミレの喜びようを見て、麻子は自分を納得はさせたつもりだが、その津和野を目前にして、やはり麻子には戸惑いがあった。
萩、石見空港は、島根県の西部に位置する益田市にある。
ここから津和野へはJRの山陰線が通っていて、高津川という川に沿っって上がっていく。アメリカの赤茶けた大地ばかり毎日見ながら暮らしている朝子とスミレには、新緑の濃さとのどかな田畑の
風景はたまらないものだった。
「こんな風景があるから、日本って好きなんだよな。」
スミレはこれまで北海道や信州を旅行したときも、確か同じことをいっていたが、今回も電車の窓を開け放って、心地よい風に頬を撫でられながら、一人ごとのように呟いていた。
「一度ジェミーも日本に連れて来てあげたいな。いつもいってるんだよ、今度日本に行くときは必ず連れてくからって。でもいざとなると邪魔だしね・・・。マミーと二人きっりの方が楽しいし。」
窓から身を乗り出してそんなことをいっているスミレのことを、麻子は嬉しそうにみつめていた。
スミレとこうして二人で日本に帰ってくるようになって、もう何年たつのだろう。欧米の人は自分の希望をはっきり伝えないと、それに答えてくれないことが多いい。日本的な考えで黙ったまま相手に期待すると、いつまでたっても何もないものだから、それが国際結婚では離婚の原因になったりするが、ジムは何もいわなくても、結婚してからずっと2年ごとに日本に里帰りをさせてくれた。スミレも結婚してしまえば、そのうち私も一人で帰ってくることになるのかな。麻子は心地よい電車の振動で、再び襲ってきた時差ぼけによる眠気に引きずり込まれるのを我慢しながら、そんなことをぼんやり考えていた。
益田市から津和野までは、特急電車で30分しかからない。麻子とスミレが津和野の街に着いたのは午後1時半過ぎだった。
駅から見回すと、津和野という町が谷あいにある小さな町だということがよくわかる。町の西側には青野山という山がそびえていて、国道9号線が目線よりも随分高い、青野山に連なる山々の麓を走っている。一方東側も険しい山になっていて、津和野城跡は山頂に、太鼓谷稲荷神社は小高い山の中腹にある。そして町の真ん中を津和野川がゆっくり流れていて、錦鯉や黄金色をした鯉がのんびり泳いでいる姿は風情があり、観光客を一年中楽しませている。
二人は駅を出ると、スミレが予約を取っておいた「のれん宿・名月」に向かって歩き出した。宿は駅から歩いても5分のところらしく、チェック・インにはまだ時間が早いため、とりあえず荷物だけ預かってもらうことにした。
津和野町は観光地らしく、旅館やホテルはけっこうあるが、スミレはいつも旅館を好んで使う。ベッドが並べてあるだけの部屋よりも、畳と障子と庭園があるところが日本に居るって気になっていい。いつもそういって旅館ばかり泊まり歩くのだが、今回予約した「名月」は歴史が一世紀以上ある上に、案内に書いてある「のれん宿」の意味に、スミレはすっかりここしかないと自分で勝手に決めていた。
「古い建物と、変わらないサービスと、空気を、のれんに託して受け継いでいくって意味なんだって。建物も純日本風だし、ここしかないよ。」
アメリカで生まれ育ったスミレだが、日本育ちの私よりも、どうしてこうも純日本的なものを好むのか。と、いつも麻子は不思議に思うのだが、「マミーはいつも見て育ったから何も感じないかもしれないけど、アメリカ人にとっては長い歴史のあるものって凄く魅力的なんだよ。」そう言われて麻子は、「そうかスミレは純粋なアメリカ生まれのアメリカ人なんだ。」と、我が子でありながら、スミレは自分とはまったく違った人種なんだと、つくづく思うのだった。
津和野の町で最も昔の面影を残しているのは殿町である。二人が泊まる旅館のすぐ近くに位置し、藩校養老館や家老門や造り酒屋、裏路には土蔵の商家などがあり、昔の城下町の風情を残している。
6月の花菖蒲の咲く季節にはまだ早かったが、二人は土塀に面した掘割に沿った路を、地図を頼りに津和野大橋の方に向かって歩き出した。
「わァ、凄い。なんて美れいなカープなんだろうね。それも沢山いるよ、マーム。」
殿町の掘割にも錦鯉や黄金、銀色に黒い斑の入ったものなど、様々な鯉が沢山泳いでいて、白い土塀とマッチして津和野のシンボルとなっているが、スミレにとっては初めて見るファンタジックな光景のようだった。
「やっぱり来てよかったでしょ。こんなに素敵な町を見過ごしてたら、私きっと後悔してた。」
麻子はスミレのはしゃぎ様が少し羨ましかった。もし津和野という町に何のわだかまりもなければ、きっと自分もスミレと同じように、素直に感動を表に出せただろうにと思うのだった。
その日二人は近場の散策をするだけに留めた。津和野はそれほど大きな町ではない。観光のポイントも森鴎外旧宅や乙女峠マリア聖堂などの有名なポイントがあるが、麻子は時差ぼけもあるし、それほどこの町で活発に動き回る気にはなれないでいたので、後は明日、太鼓谷稲成神社に参詣すれば用は済むと思っていた。それに次の日の午後3時過ぎの山口行きのSL山口号に予約を入れていたので、明日の朝から時間は充分あった。
翌朝、スミレは早く起き出し、レンタ・サイクルを借りて、乙女峠マリア聖堂と森鴎外旧宅を見ておきたいからと言ってさっさと出かけてしまった。
麻子はスミレと正午に太鼓谷稲成神社で落ち合うことにして、チェック・アウトの時間ぎりぎりまで旅館に居て、荷物を預けて旅館を出た。
旅館から太鼓谷稲成神社に上がる、朱塗りの鳥居のトンネル階段入り口まではそれほど距離がない。
掘割のある殿町を歩き、津和野大橋の袂の信号を渡れば、そこから山口線のガード下まで土産物屋などが軒を連ねる。ガードをくぐると左側に弥栄神社があり、昔礼一がこの周りで遊んだことを話してくれたとき、この神社を含めて古ぼけた神秘的な雰囲気があって、一番好きな場所だったといっていた記憶があるが、さすがに30年近く経ったせいで、人の力がいろいろ加えられたせいか、それほど古ぼけて神秘的な雰囲気を麻子は感じられなかった。
ただそんななかにも、神社を含めたいくつかの木造の建物にはさすがに歴史を感じるのだが、昔礼一がここに立って見ていたものを、私は今同じ場所に立って見ていると思うと複雑な気分になるのだった。
朝まだ少し早かったせいか、参道にはそれほど人影はなかった。
唯一麻子の少し前を、白い杖をもった初老の男性が、覚束ない足取りで歩いているくらいで、周りはしごく落ち着いた雰囲気に包まれていた。
麻子は一人で歩きながら、何度も何度も自分がこうして津和野の町にいることを思い溜息をついた。自分にあれほどの苦痛を与えた男、朝倉礼一の生まれ故郷に自分が立つことなど、この二十数年思ってもみなかったことであった。
「私も年を取ってしまって、少し弱気になったのかもしれない。でも、何も言わずにいなくなった礼一にもしここで会えたら、あの時どうして何もいってくれなかったのか。その本心だけは聞いてみたい。」
ふと麻子はそんなことを思うのだった。
出会い
麻子がアメリカ、ロス・エンジェルスに渡ったのは20歳の時だった。
高校を卒業して、2年間専門学校で建築のデザインを学んだが、それでは飽き足らなかった。というよりも、麻子には並以上の出世欲があって、それを実現するには、日本の男子中心の社会には無理を感じていた。それで思いついたのがアメリカ行だった。アメリカなら実力さえ認められれば世に出て行けるチャンスはきっとある。そんな話を以前長くアメリカに住んでいた知り合いから聞いたことがあった。
それで麻子は両親を説き伏せて、なんとかアメリカに留学できる道を自力で切り開いたのだった。
怖いもの知らずという言葉があるが、この頃の麻子はまさにそれで、勢いだけで突き進んでいた感がある。
そのせいか、充分な語学力もアメリカ人社会に対する充分な知識も持たなかった麻子は、最初の2年間は、何度も日本に帰ろうと思う位打ちのめされた。言葉もそうだったが、席を同じにする同世代の学生達のレベルの高さにも舌を巻いた。専門職を目指すアメリカの学生達の向上心と意識の高さ、競争心には驚かされた。そこまで想像もしなかった自分の愚かさを、その時初めて知った。
しかし、それでも麻子は負けなかった。6年掛かったが、学位をその手で掴み取ることができたのだった。
ただ、そんな麻子にもひとつ大きな見落としがあった。
麻子自身はあくまでも留学生の身であり、アメリカの市民権もなければ永住権もないことで、アメリカに残って就職活動をするには、大きな壁があることまで考えなかったのである。
卒業してから後、アメリカに残って仕事を取って生き抜いていくには、まず自分を雇ってくれそうな企業を見つけ出し、自分を売り込んで仕事を確保し、その上で就労ビザを取るためにスポンサーになってもらう必要があった。
そのための活動は、卒業以前から始めておかなければ、いざとなってからそう易々とできるものではないのに、生活費を稼ぐためのバイトと、日本よりも数倍難しい単位取得に追われて、麻子にはそんなとこまで気を回すだけの余裕は、実際のとこなかったことも影響していた。
がむしゃらに突っ走ってきた麻子が、自分の置かれているそんな状態に気づいて焦り始めたのは、卒業間じかになってからだった。
1970年代から80年代にかけてのアメリカ社会は、日本経済が急速な成長期を迎えているのとは対照的に、多くの分野で問題が山積し冷え切っていた。麻子が安易に思うほど外国人が簡単に就職口を見つけられる環境ではなかった。もしそこに同レベルの若いアメリカ国籍のデザイナーと日本人のデザイナーがいれば、よほどのことがない限り、仕事はアメリカ国籍の若者の方に転ぶといってよかった。多くの失業者や不法滞在者を抱えるアメリカはそんな状態だった。
実務経験も実績もなく、勿論アメリカに頼れる肉親もいない麻子が置かれている現実は、実はそんな状態だった。
ただ6年間もアメリカで暮らして来た麻子だから、さすがにこの頃の麻子にはいろんな分野に沢山友達ができていて、困ったときに役立つアドバイスにも事欠かなかった。
麻子にとって一番理想的なことは、そのままアメリカに残って、仕事を見つけて永住することだった。そのためにはまず仕事探し、スポンサー探しのための時間を作る必要があった。アメリカという国では、オーバー・ステイという言葉を気にする不法滞在者は少ない。学生ビザが切れてしまっても居座ってしまえばいいことだが、それでは大手を振って歩けない。麻子はそう考えた。それでとりあえずアドバイスを受けて取った行動は、とりあえず移民局に永住申請を出しておくことだった。
移民局にパスポートを添えて申請さえしておけば、移民局の審査結果が出るまでに少なくとも数ヶ月は掛かる。学生ビザがたとえ切れてしまっても、手元にパスポートがない以上他の行動はとれないのだから、その間はアメリカに留まれる訳だ。
麻子はこの申請を、学生ビザが切れる時期を見計らって出した。神にも祈る気持ちだったが、もしだめなら最悪不法滞在者になってもいい。― アメリカに残る意思の固さは、そこまでいっていた。
麻子が礼一に初めて出会ったのは、その作業が一段落して、落ち着いて仕事探しを始めたばかりの頃だった。
ロス・エンジェルスのリトル・トーキョーには、日本の書物を扱う書店が数件あり、大手の紀伊国屋書店もここに店を出している。
活字に飢えたり、欲しい情報があると、ちょくちょく麻子はここに足を運んで、迷惑だろうなと思いつつ立ち読みをして時間を潰すことがよくあった。
その日も例のごとく、建築の専門書や雑誌の並べてある棚から、一番新しい雑誌を見つけてページをめくっていた。
「へェー。もしかしてあなたもこちらで建築の仕事をなさっているんですか。」
急にそう声を掛けられて振り返ると、なにがそんなに楽しいのと思えるような、そんな笑顔をした男がたっていた。薄く開いた口元に見える白い歯と、少し長めの髪、そして少し潤んだような目が印象的だった。
「あッ、ごめんなさい。不躾ですよね。本当に・・・。じつは僕もこっちで建築関係のデザインの仕事をしているんですが、同胞のお仲間の人ってなかなかいなくって・・・。それでつい失礼もかえりみず声を掛けてしまいました。気分を害したら申し訳ない。」
それが、麻子と礼一の出会いだった。